「見ていてくださる」  07.06.03
               ヨハネ1:35〜51

 主イエスの弟子として生きる私たちクリスチャンは、主イエスの
お姿を見つめながら、その後に従うようにして歩みます。
 主イエスが、どのようなところに進んで行かれ、どんな人に、
どんなことを語っておられたかを聖書を通して知らされています。
 そんな主イエスのお姿を見つめる時に、現代に生きる自分が、
どんな所に心を向けて、どんな人に何を語るべきか。主イエスに
従う者として、何を語り、何をなすべきかが見えてくるでしょう。
 主イエスの歩まれるお姿をしっかりと見つめながら、その主イエスと
同じ方向を向く心を持って歩むものでありたいのです。
 主イエスを見つめている時に、主のまなざしが自分に向けられて
いることに気づきます。それは、将来を見通すまなざしです。
 主イエスは、シモンを見つめて、彼に「岩」という名をお付けに
なりました。後に彼がする信仰告白を土台の岩として、その上に
教会がたてられていくことを見通しておられたようです。将来を
見通すのであれば、後にシモンが主イエスを三度否認することも、
見通しておられたに違いありません。
 また、過去を見通すまなざしでした。初めて会ったナタナエルを
見つめて、彼がその前にどこで何をしていたかを見通しておられ
ました。彼は、自分の主イエスに対する冷ややかな態度も見通されて
いたことに気づいたことでしょう。
 主イエスのまなざしは、将来でも過去でも、良いところだけではなく
悪いところも見通しておられます。「すべてを見られている」ことは、
不安に思うかもしれません。人は、神さまに対する罪深いところが
ありますから、すべてを見通されることに不安をおぼえます。
 しかし、そのまなざしを向けておられるのが、「罪を取り除く神の
小羊」であることを忘れてはなりません。
 断罪するために目を光らせる者ではありません。
 主イエスを見つめる時に、「あなたのその罪を取り除いて
救いたい」との思いが込められたまなざしが、自分に向けられて
いることに気付かされます。